プレゼンの内容はとても秀逸だと思う。
何回も読み返したいし、きっと引用もすると思う。
いつか消えてしまうと嫌なので、以下全文の引用を・・・(何かの違反じゃないよね・・・ダメなら消します。(^〜^:)
すばらしいソフトを作るには、カリスマが講演
2008/02/14翔泳社が主催するデベロッパーズ・サミット2008で講演するジョエル・スポルスキー氏
記者という職業柄、これまで非常に多くのプレゼンテーションを見てきたが、プレゼンテーションの1枚目が半裸の女性モデルの写真だったのは初めてだった。
2月13日、14日の予定で東京・目黒で開催中の「デベロッパーズ・サミット2008」で講演したFog Creek Softwareの創業者でCEOのジョエル・スポルスキー(Joel Spolsky)氏のプレゼンテーション「Joel on Developers Summit――素晴らしいソフトウェアを作るということ」は、型破りに楽しく、なおかつソフトウェア開発者にとって示唆に富む内容だった。
スポルスキー氏は米マイクロソフトのExcelチームで、Excel用マクロ言語を、後にVBAと呼ばれることになるモダンなオブジェクト指向言語に置き換える仕事でプログラムマネージャを務めたことがあるなどソフトウェア開発のベテランだが、エッセイの書き手としても名を馳せている。ソフトウェア開発に関する珠玉のエッセイ集として知られるブログ「Joel on Software」(邦訳サイト)はハッカーの間ではカリスマ的な人気を誇っている。
1位と2位の埋めがたい差
Joel on Softwareの文体は、ニューヨーカーらしいウィットとブラックユーモアに満ちたものだが、それは聴衆を前にしたトークでも同様だった。
「これから皆さんは退屈なスライドをたくさんご覧になるので、まずはベッカム夫人、ビクトリア・ベッカムの写真をどうぞ」。
そういうとスポルスキー氏は、胸元が大きくはだけたセクシーな写真をプロジェクターで表示した。続いて「性差別主義者と言われないように」と、今度は隣に上半身裸のデビッド・ベッカムの写真を提示。会場は笑いに包まれた。「この会場でベッカムのことをご存じの方は?」と言って満場の会場のほとんど全員が挙手するや、今度は「1、2、3……」と、その数を数え始め、そうかと思えばあっさり「オッケー、6人ね」と嘘っぱちの数字を口にするなど、テンポ良く聴衆の予想を裏切り、次々に笑いを誘う。
この導入トークは、単なる眠気覚ましのスタンドプレーやジョークではなかった。スポルスキー氏はすかさず、ベッカムと同じチームの主将であるランドン・ドノバン選手の写真を提示して、こう続けた。
「ベッカムがどうして人気があるのか私にはよく分かりません。このランドン・ドノバンのほうがはるかに優秀な選手で、チームにとっていい仕事をしています。でもベッカムのほうが有名です。グーグル検索では800万件と80万件の差があり、年俸でもベッカムが年に650万ドル以上もらっている一方、ドノバン選手はTシャツを破ったときに無償でTシャツがもらえる程度なんです」。
興奮の渦中で自らTシャツを破り捨てる瞬間の写真を提示されたドノバン選手には気の毒だが、1位と2位の差は、それほど埋めがたいというのがスポルスキー氏の指摘だ。「これはiPodと、おもしろみのない暗い色のZuneの関係にたとえることができます」という。
同様の違いは音楽や家具でも当てはまる。例えば、高級オフィスチェアの代名詞ともなった「アーロンチェア」は、登場した当時は誰もが昆虫みたいだと思った程度だが、いつの間にか、市場はアーロンチェアを真似た虫型の椅子だらけになった。しかし、そのどれもが、アーロンチェアよりも優れているものもあるというのに、まったく二流のままである。音楽の例では、1968年の全米ヒットチャートを見ると2位はリチャード・クレーダーマンの「恋は水色」、1位はビートルズの「ヘイ・ジュード」を挙げる。スポルスキー氏は2つメロディーを続けて聴衆に聞かせ、いかに2位の曲に比べて1位の曲を耳にする機会が多いかを指摘した。
ユーザーを不幸にするシステムとは
一流ブランドと二流を分けるものは何か。スポルスキー氏は「これはほんの30秒ほどで考えたことなので、あまり真剣に受け止めないでほしいんですが」と前置きしつつ、こうした現象に背後にある「法則」を3つにまとめて提示した。
「(成功の)方程式」(The Formula)と冗談めかして大げさに名付けられた法則とは、「人を幸せにする」「感情を考慮する」「美学にこだわる」の3つだ。これら3つについてスポルスキー氏は、具体的な例を挙げつつ、ソフトウェアやサービスを開発をするプログラマに向けて、それぞれの意味を説明した。
スポルスキー氏が示した「(成功の)方程式」(The Formula)
人を幸せにするという観点でソフトウェア開発者ができることは、実はゴリゴリの技術者が思うよりもたくさんあるというのが氏の指摘だ。ソフトウェア開発では本質的なロジック部分を書くのがプログラマで、UIはグラフィックデザイナなどが後から付け足すものと捉えられていることが多い。これが大きな間違いの元だというのだ。
スポルスキー氏は心理学者が「学習性無力感」(learned helplessness)と名付けた現象を紹介する。
コーネル大学の心理学者のマーティン・セリグマンとスティーブ・メイヤーが1967年に行った、犬を使った有名な実験がある。21世紀の今なら動物愛護団体が飛んできそうな話だが、彼らは犬に電気ショックを与えた。一方のグループの犬はレバーを押すことでショックを止めることができ、他方のグループはレバーが機能せず、痛みを止めることができない。「やっても駄目だ」と学習したグループの哀れな犬たちは、徐々に無気力になり、鬱病に似た症状を示したという。
人々はコントロールの主導権がないと分かったときに無力感に苛まれ、不幸になる。
多くのソフトウェアやWebサービスは、まさに、そうした無力感をユーザーに与えているのではないか、というのがスポルスキー氏の指摘だ。
ブログに写真をアップロードしたいだけなのに、システムの更新を強要され、更新ファイルのダウンロードを始めたと思ったら、今度は接続が切断される。プログレスバーが100%に達してダウンロードが終わったかに見えたと思えば、再びプログレスバーがゼロからスタートする。「インストーラを作る人たちは100%ってことの定義を知らないみたいですね」と、スポルスキー氏のジョークは手厳しい。ひょんなことでデジカメのケーブルがUSBポートが抜ければ、「抜く前に先に言えよ」とシステムに怒られる。今のPCではユーザーにコントロールの主導権がないことがあまりに多い。
あくまでも架空のシミュレーションだとしながらも、人々が常日頃感じている理不尽さを、ブラックユーモアたっぷりに表現した(2月15日編集部注:他社が著作権を持つキャラクターが使用されているためぼかしを入れました)
Webアプリケーションも同様で、よく見ると良くできたeコマースサイトであっても、カートに商品を入れるところから発送手続きを終えるまで、必ず一定の手順で行うよう強要するようなことはよくある。ページ遷移は固定的。ひどい場合には戻るボタンを押すと正しく処理が終了しないと脅されるということもある。システムの都合でウィンドウサイズを勝手に変化させる、あるいは固定するといったものもユーザーを不幸にする典型的なUIだろう。
そうしたWebアプリケーションに対して、ユーザーにコントロールの主導権を与える実例として、スポルスキー氏はアマゾンの会計画面を示した。カード情報や住所の入力ボタン、発送先の変更ボタンは1つの画面内に配置され、ユーザーは何から操作しても構わないようになっている。「アマゾンでは、ユーザーがコントロールできるのです」。
AjaxやJavaScriptによるダイナミックなWebページがウケている理由も、こうしたコントロールの主導権の方程式で理解できる。スポルスキー氏は、ある衣料品サイトのデモンストレーションを行い、選択したパンツの色がユーザーのアクションに応じて即座に変わるというインターフェイスを例示。押した瞬間にシステムが反応するというレスポンスの良さが、ユーザーにコントロールの感覚を与えるのだという。「サーバに行って1秒もかかるなんて遅すぎます」。
鬱病にもつながる学習性無力感には確立された治療法があるという。非常に簡単なタスク、例えば窓を拭くとか封筒をなめて閉じるとか、そういうタスクを患者に与えて小さな達成感を積み上げていくというものだ。ソフトウェア開発者は、ユーザーに極力コントロールの主導権を与えて小さなタスクを確実にこなせるよう配慮することで、「人を幸せにする」ことができるのだという。
クルマの安全設計のためにはカップホルダーが重要
スポルスキー氏が示した3つの法則のうち「感情を考慮する」ということに関して、彼は一風変わったマーケティングの例を挙げた。それはSUVやRVと呼ばれる車高の高い大型車の安全設計に関するものだ。
SUVは車高が高いぶん、事故で転倒する確率が高く、死亡事故発生率が他の車種よりも高い。しかし、メーカーとしては、そうも言えない。困ったアメリカのある自動車メーカーはフランスの著名なコンサルタントに相談に行く。そのコンサルタントが出した答えは、工学的にはナンセンスな、あるいは少なくとも工学には無関係のマーケティング上の処方箋、「安全設計のためにはカップホルダーが重要だ」というものだったという。しかも、車高はできる限り高くするべきだ、というのだ。
人々が安全を感じるのは理屈ではない。もっと情緒的な情報処理による。
例えば他人を見下ろせるということは、精神的に非常に心強くなる。そしてあちこちにエアバッグがあり、内装のどこもかしこも丸みを帯びていてソフトに見えることなどが重要だという。高い場所にいて柔らかいものに包まれる感触は、子どもの頃に「ママに抱っこしてもらって暖かい飲み物がそばにあった」という思い出と結びつく。柔らかいものに囲まれ、高い場所にいて、暖かい飲み物がそばにあるなら、つまり安全だと人々は感じる。だから、座席の横にコーヒーカップを置いておくカップホルダーが重要なのだという。揺れてこぼれるとか、カップの置き場所がなくて不安になるようでは“安全設計”としては失格なのだ。
制御工学と製造技術の粋を集めた到達点であるはずの自動車のようなプロダクトにおいて、その製品が愛されるかどうか、選ばれるかどうかは、工学的、統計学的な理由付けとは無関係な、心理学的効果によっている。「だから、Windowsも、Windows 2000からWindows XPになったときに、ウィンドウの角が丸くなったんです」。そういってスクリーンショットを映し出すと、会場はまたしても笑いに包まれた。
別の例として、スポルスキー氏は自身が体験した、ある開発プロジェクトの例も挙げた。2週間という短納期で、価格も安く、要求仕様もすべて満たしたソフトウェアを顧客の前でプレゼンテーションしたところ、大変に不評だった。そこでいったんソフトウェアを持ち帰り、画面表示の色を変えるなど「ソフトウェア開発者にしてみれば、何だこれごときでと思うような、非常にささいな微調整を行った」ところ、顧客の反応は180度違ったものになったという。スポルスキー氏は「人々はとても表面的な判断をするものです」と、見た目の重要さを指摘する。
醜悪さを徹底して嫌うオブセッションが愛される理由
3つ目の法則、「美学にこだわる」という観点での王者はアップルのスティーブ・ジョブズだ。
サムスンのスマートフォン「BlackJack」は99ドルでフルキーボード付き。アップルの「iPhone」は399ドルもするのに「指紋がベタベタ残るディスプレイだけ」(スポルスキー氏)。しかし、iPhoneは一級品である一方、BlackJackは人気の面ではiPhoneの比較対象にすらならない。
BlackJackは、高速なHSDPA対応で、バッテリも自分で交換できる。アプリケーションを自分でインストールできる。一方、iPhoneはバッテリすら自分で交換できない。
ユーザー自身によるバッテリ交換を可能にするには、どう設計しても本体のどこかに最低でも1本の「継ぎ目」が入る。アップルは、それを拒む。BlackJackが大量のプラグや継ぎ目でフランケンシュタインのようになっているのに対して、iPhoneは一切の継ぎ目を排した美しいデザインとなっている。
この「ファッション性と実用性」の対立を、スポルスキー氏は同時代に建てられたパリとニューヨークのアパートの外観の違いにも認める。アメリカではヨーロッパ風の外観を持つアパートが多いが、ベランダには上下をつなぐジグザグの非常階段が常時設置されている。一方、パリのアパルトマンには、そうした醜悪な建造物は一切ない。「パリのアパルトマンに住む人々は火事のときに逃げ遅れて、丸こげになってしまうでしょう。でも、燃えながらでも彼らは美しく燃え尽きていくんです」。
たとえ話はブラックだが、美学へのこだわり、あるいはオブセッションというべきものは、そうした理不尽さをはらんでいるもので、「ステーブ・ジョブズは密かにフランスのキングになったのだというのが、私の持論です」とスポルスキー氏は笑う。
ソフトウェアの世界における装飾は「堕落」か
では、iPhoneと同様に、ソフトウェア開発でも美学を追究してシンプルな外観を目指すべきか。この問いに対して、スポルスキー氏はまったく正反対の結論を出す。氏は、ソフトウェアと近代建築の世界を比べて論じる。
かつて西洋の建築の世界では教会の威光を示すかのように、ごてごてとしたゴシック建築の文化が花開いた。しかし、近代的な建築では装飾は「堕落」だとして否定する。そうしてバウハウスなどから出てきたのが、無駄な装飾を一切排した幾何的デザインの建築様式だった。近代的なビルやマンションは直方体か、せいぜい屋根に傾斜がある程度。「むかし、すべての屋根を平たくしたら北欧で雪の重みで家がぺちゃんこになることが増えた。それでまあ、1つぐらいなら傾斜を入れてもいいでしょうということになったんです」。スポラスキー氏はそういうと、屋上が斜め45度に傾いた高層ビルの写真を画面に出し、会場にはドッと笑いが広がった。
モダンな建築様式に相当するのは、ソフトウェア環境で言えばUNIXだ。昨今のヘビーなGUIやデスクトップ環境を備えたUNIXではなく、テキストベースのUIには、一切の無駄がなく、かつ必要な情報が、すべて表示されている。「しかし、人々が愛するのはUNIXではなく、Mac OS Xだったりするのです」。そういってスポルスキー氏は“無駄な装飾”だらけのデスクトップを大写しにして、改めて聴衆の関心をUIとは何かという難しいテーマに振り向けた。
もちろんスポルスキー氏とて、近代的なGUIデスクトップ環境を、すべて無駄な装飾として本気で切り捨てているわけではないだろうが、無駄に思える装飾が多いのも事実だ。それには2つの理由があるとスポルスキー氏はいう。
1つは、ソフトウェアというものが、建築ほどまだ装飾に飽き飽きしていないこと。確かにPCの世界ではハードウェアでもソフトウェアでも性能向上を競い、多機能をうたう風潮が長く続いた。そのため、人々は「装飾=機能」と錯覚してきた面があるのかもしれない。
愛されるソフトウェア製品を作る秘訣として、スポルスキー氏が装飾が重要だと指摘するもう1つの理由は、またしても心理学的なものだ。
「今日聞いた話を全部忘れても、これだけは覚えて帰ってください」と言って心理学用語の「誤帰属」という概念を紹介するスポルスキー氏
人間は、自分が感じている感情や生理的な反応の原因を、直接因果関係のない事象に帰結させてしまう傾向を持っている。心理学者が「誤帰属」(misattribution)と呼ぶこの現象を、スポルスキー氏はこういう例で説明する。「デートでバーに行くのはいけませんね。アルコールは人を鬱状態にします。逆にコーヒーを飲むのがおすすめです。コーヒーを飲むと心拍数が上がる。ドキドキする。あなたがデート中の女性は、自分がドキドキしていると感じる。あら私はドキドキしてる、目の前にちょっとキュートな男の子がいる、私は恋に落ちたに違いない、と考えるんです」。
コーラをがぶがぶ飲んで映画を見た場合でも、おしっこを我慢して映画を見続けたか、カフェインの影響で興奮状態であったかで、映画を見た後の評価は180度変わりうる。
ソフトウェア開発者は従って、人々に愛される製品を作るために、印象を左右する装飾やUIを軽視してはならないのだ、というのがスポルスキー氏の指摘だ。ソフトウェア開発者にとって表面的問題に過ぎないかもしれないが、人々がすばらしいソフトウェアだと感じるかどうかは、ロジックではなくUIにかかっている面も強い。
多様な事例、写真、音楽をスピーディーに展開して、ジョークもくまなくちりばめたスポルスキー氏の講演。最後には「私の講演も、何だかよく分からなかったけど、おもしろかったし、ビートルズの音楽も良かったし、すばらしかったと思ってもらえるんじゃないかと期待しています」と締めくくり、聴衆の持つ誤帰属の傾向を狙ったプレゼンテーションだったことを明かす自己諧謔的なオチまで用意する周到さだった。
2008-02-16
「すばらしいソフトを作るには、カリスマが講演」より
2008-02-09
The Structure of Collaborative Tagging Systems 翻訳−3
前回の続き
2章が終わったら、しばらく別のやつを翻訳するから、後半は恐らく上げないと思うw
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2.1分類法の意味的および認知的側面
タグ付けシステムと分類法のどちらも、これまでの言語とそれらが説明している物の間で成り立つ関係を築く自然な進化する過程から生じる必然的な不完全性による問題に悩まされている。それらの問題のうち、多義性、類義性、と基本的なレベルの変動の三つがある。
多義語とは多くの意味を持つ言葉である。例えば、「窓」とは壁に開いている空間をさすし、またはその中にある窓ガラスを燃さすかもしれない。(Pustejovsky 1995)実際、多義号は関連するが潜在的に応用不可能な物を返すことで検索の結果の意味を薄める。表面的には、多義語は多くの無関係な意味を持つ同音異義語に似ている。しかし、関連した語句を追加することによって、大概の不必要な同音異義語を除外できるので、同音異義語はさほど問題ではない。もちろん多義語ではなく同音異義語が意味的な関連をすることがある。例えば、アップルで仕事を探すとき、CEOの姓の紛争で問題が起こるかもしれない。
タギングに矛盾した語句を用いることで、関連する全てのものが見つかったと人に確信しづらくさせることで、議類語、あるいは同じか近い意味を持つ熟語はより大きい問題をタギングシステムにもたらす。タグ付けをする人にとって、一貫した言葉でタグをつけることは難しい。例えば、テレビに対するものは「テレビ」とも「TV」ともタグづけられる。この問題は共同タグ付けでさらに悪化する。全ての利用者は広く慣例に従うか、あるいは複数かもっと複雑な設定を出して可能性をカバーする必要があることを認めなければならない。類義語は重要な問題である。なぜなら、どのくらいのものがそこには入っていないかを知ることができない。人は自分のもうけた問いから取り戻したがるが、そうはいかない。(?)
2008-02-07
The Structure of Collaborative Tagging Systems
前回の続きとして、hp Labで拾った興味深い論文の翻訳を記録用に掲示しておきます。
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2タギングと分類
支持者は、特にブログコミュニティーにおいて、しばし共同タグ付けのことについて分類システムに基づくラベル化を引き合いに出す。後者は階層的であり、排他的である。前者は非階層的であり、包括的である。同類による分類法は動植物のリンネ分類学や書籍においてのヂュイナー十進法(米国の十進分類法)、また電子書類を整理するためのファイルシステムを含む。それらのシステムにおいて、動物や本、ファイルなどは明確なカテゴリーに属し、そしてさらに普遍的なカテゴリーにも属している。例えば、ライオンや虎はヒョウ属である。猫はネコ属である。しかし、ヒョウ属と猫属のどちらもがネコ科に属し、ライオン、虎、猫のすべてがその一員である。同様にアフリカ地理学の本はヂュイナー分類法では916に該当し、南アメリカの方は918に該当する。しかし、どちらも地理学全般を含む900番分類に組み込まれている。
それと比べると、タグ付けは排他的でもなければ、階層的でもない。故にいくつかの状況では上記の階層的分類法より優れている。例として、ある研究者がアフリカ特有の猫に対する論文をダウンロードしたとしよう。もしこの研究者が手に入ったすべての論文を整理しようとしたら、ファイルシステムにはいくつかの想像しうる選択肢があり、そのうちの4つを検討するとしよう。
1. c:\書類\猫 すべての書類は「猫」フォルダーに入れる
2. c:\書類\アフリカ すべての書類は「アフリカ」フォルダーに入れる
3. c:\書類\アフリカ\猫 すべての書類は「アフリカ」フォルダーの中の「猫」フォルダーに入れる
4. c:\書類\猫\アフリカ すべての書類は「猫」フォルダーの中の「アフリカ」フォルダーに入れる
それぞれの選択は各々の特徴の相対的な重要度を反映している。フォルダー名と階層はその中ではラベルのように有益で、その範囲内で持っている情報の内容を示している。先に上げたフォルダー1番や2番は「猫」と「アフリカ」に対する重要な事実を作るが、しかし、ほかのすべての分類情報を無視している。
3番と4番は両方のカテゴリーを使ってファイルを分類しているが、最初のカテゴリを主要的に際立たせ、次のカテゴリーを従属的あるいは具体的なものとさせている。しかし、3番のフォルダーに入っているファイルを4番で探すことは無意味であり、複数の場所をチェックする必要が出てくる。
これらの限界にも関わらず、このような階層を課すのにいくつかのよい理由もある。特にフォルダーを無計画に作ることで、多くのものが階層にあることになるにもかかわらず、能率的に制作された階層はきちんと、そして明瞭にファイルの中身を反映する。キーワード検索のように、利用者が一つの問いに対して、すべての物があることを確信できないのとは違って、階層構造は検索者に含まれる物がすべて安定したところにあることを保証する。
階層型ファイルシステムとは対照的に、排他的ではない並列的なタグシステムは上述したシステムと違って、論文を同時に多様なキーワードで特定することができる。そこには「アフリカ」と「猫」のみならず、全般的な「動物」やさらに具体的な「チータ」をも含むことができる。
ベン図のように、猫とアフリカの両方のタグをつけた物は性格に一様に交差している。すなわち、アフリカの猫とタグ付けされた書類である。しかし、これも完璧ではない。例えば、「チータ」とだけタグ付けされた文書は恐らくそうであるべきなのに、「アフリカ」と「猫」の交差では見つけられない。上記の収納の例では検索者は依然複数の場所を探す必要がある。
別の見方をすれば、タグはフィルターのようである。すべてのタグをつけられた、可能性のある書類(あるいはそれ以外のもの)から、フィルター(すなわちタグ)はあるタグをつけたものだけを返してくる。
実施と質問に従いタグは交差を提供する代わりにタグの組み合わせを提供することができる。それはすべての与えられたタグに対応するものというよりむしろ、そのうちのどれかのタグに対応する全てのものを返す。利用者の展望から見て、タグによる誘導はキーワード検索することと似ている。実施に関係なく、ユーザーは適切な物を手に入れるための明確な記述項目を与えられる。
2008-02-04
The Structure of Collaborative Tagging Systems - 1
ABSTRACT
協同タグ付けとはキーワードを書き入れる形で、大勢の利用者が共有している情報内容に対してメタデーターを付けることを指している。現在、ブックマークや写真などといったコンテンツに対してタグ付けのできるWebサイトでは、協同タグ付けは一般的になりつつある。この論文では協同タグ付けのシステムの構造に加え、その力学的側面について分析をする。特に、この研究を通して、利用者の活用、タグの頻度、使われるタグの種類、そしてブックマークに於いての突発的な人気の規則を発見できると同時に、一つのURLに関係するタグの割合の注目すべき安定度をも見いだせる。また、それらの安定したパターンを再現や共有された知識情報に関連づけし、予測することの出来る協同タグ付けの力学モデルを提示する。
KEYWORD LIST
協同タグ付け、フォークソノミー(folksonomy)、Del.icio.us、ブックマーク、Web、共有
1. INTRODUCTION
キーワードやタグなど、テーマによって内容を印づけることは、フィルタリングや検索と言った現代的な情報活用のための一般的な分類手法である。この方法でデジタル情報の分類をすることは目新しいことではないが、これを協同的に行うことは支持者から「tagging」というふうに名付けられ、Webでは人気を得ている。
書類の保管所やデジタル図書館は保存している書類に対して、しばし指定されたキーワードによって分類している。しかし、伝統的な分類や目録の作成は司書などの一人の専門家によって行われる。あるいは、書類の著者が示している資料に由来している(Rowley 1995)。概要で述べたように、協同タグ付けは誰でも(特に利用者)自由にキーワードやタグを内容に付け加えることが出来る。協同タグ付けは「司書」の役割を果たす者が存在しないところ、あるいは単純に一人の専門家が分類するには量がありすぎるといったところでとても有用である。協同タグ付けが一般化したWebではこれらの状況がどちらも当てはまる。
この種の協同タグ付けは、意味論的なウェブ形而上学への現在の努力に、面白い選択肢を提供している(Shirky 2005)。以上のことがいくつかのグループの研究対象になっている(e.g. Doan, Madhavan, Domingos & Halevy 2002)。
現在注目されているWebサイトの多くは協同タグ付け機能を特徴としている。典型的には、タグを公開させ、内容を共有させているサイトでは、ユーザーは情報を自分のために分類することができるだけでなく、他人の分類した情報を拾い読みすることができる。従って協同タグ付けシステムには個人的と共通的な両方の側面が同時に存在する。いくつかのサイトでは、協同タグ付けはフォークソノミー(folksonomy)として知られている。これは「人々の(folk)分類法(taxonomy)」を短縮した単語である。しかし、この呼び方については適切かどうかの議論があるので(Mathes 2004)、ここでは使用を避けることとする。
私たちが分析したDel.icio.us というサイトは、共有のブックマークに協同タグ付けを許している。Yahoo の My Web でも同様にこれをやっており、CiteULike とConnotea は学術の出版物の文献紹介を作るのに同じ方法をとっている。いくつかのサービスが利用者にタグを使わせているが、内容だけを所持している。例えばFlickerは写真を、Technoratiはブログを。(タグ付けは協同ではない)この両サイトは厳密には協同タグ付けをしていないが、これらを話しに出したのは多様なメディアでのタグ付けの成熟度を説明するためである。
この論文では協同タグ付けのシステム構造に加え、その力学的側面について分析をする。特に、この研究を通して、利用者の活用、タグの頻度、使われるタグの種類、そしてブックマークに於いての突発的な人気の規則を発見できると同時に、一つのURLに関係するタグの割合の注目すべき安定度をも見いだせる。また、それらの安定したパターンを再現や共有された知識情報に関連づけし、予測することの出来る協同タグ付けの力学モデルを提示する。最後では協同的にな発生システムのユーザーの発展的なデーターの活用法に関する考察をもって締めくくる。
2007-03-22
「変」
かなりいろいろとかきたいことがあったが、ちっとも書く気が置きません。ごめん
で、ちょっとだけ。
今更言わなくてもわかると思うだけど、僕はデザインに興味がある。で、デザインとはなにか。と言うことを常に考えている。そしてそれで頭を悩ませている。
うちの学校では、デザイン分野の先生や、芸術分野の先生、数学、情報工学、化学、・・・とにかくいろいろいる。それを学生はどう思うかはともかく、外から見るとどう思うかね。僕はそれはそれで不可欠だと思うけど、一般的に見て「変」だよね。でも、その「変」ってまさにデザインにとって不可欠であり、その根本的な性質を決定づけているんだよね。だから僕は学部生の間に対しては学校選びは正しかったと思う。そして、さらにそのデザインに含まれる「変」な領域を目指している。
抽象的な話しで何がなんだか意味不明だよね。ちょっとジンが入ってるから勘弁。明日以降(書く気になれば)その具体的なところを話すつもり。
歌を三曲
久しぶりにラジオを付けたら、この二曲が何回もかかっていた。もともと好きだからいいけど、ここまで人気になるとは思わなかった。ちょっとびっくり。
iPodのCMに使われているから、全世界で有名らしい。
言わずと知れた歌業界のシンデレラガールだね。
最後に一曲Shannon Noll - Shine
なぜかかなり気に入った。よかったら他のも聞いてみて。
2007-03-07
iPhone
そういえばこれがAppleのサイトに出てた。
なんか面白いよね。センスがいいってこう言うことだろうね。きっとWindowsだって優秀な人材をどっさり抱えているのに、この違いは使い方一つかね。
映像の本家はこちらです。
http://www.apple.com/iphone/hello/
iPhone自体の日本での発売(というか3G)は08年の春らしい。お見逃し無く。(←自分がw)
Macの日本のCMをも見てやってください。ラーメンズのこの毒が結構Macユーザーにはたまらないw
そういえば、「ツリーマップ」で株式の取引額を見てみると、AppleはMicrosoftの約1/3ぐらいだった。これにはちょっと驚いた。(「ツリーマップ」自体もかなり面白いけど、それ関連の話はまたいつか。)
2007-03-06
すごく気になっていたこと
プロダクトデザイン、ビジュアルデザイン・・・デザインを細分化して行くと、いろいろ出てくる。そして、僕は今のところプロダクトデザインに興味を持っている。でもそれだけでは限界はある。と言うより自分的にプロダクトデザインと言う言葉を拡大解釈しすぎてしまっている。結局デザインの一言で括っちゃえばいい話かもしれない。でも、デザインと言う言葉をも拡大解釈していた。・・・つまり、やりたいことはいろいろある・・・かな。
話は前回のIAMASに戻るが、土田さんのサイトグラフィックという作品は本当に気になる。あれは会場で見た瞬間「これは使えるっ!」って思った。これだけの基礎ができていればそのまま起業してみてはどうだろうかと思うわけだ。で、前回も描いたけど、このエンジンをどこで使うかと言うと、やはり大型のショッピングサイトが最も恰好だと思う。多分ネットショッピングをしたことがあれば、階層をたどって行って自分の気に入りそうな商品を見つけることがどれだけ骨が折れるかはわかると思う。もし決まった商品をただ購入するために検索するのだったら、名前を検索欄に打ち込めばいいが、漠然とこういったものがほしいと思うと、検索をしたところでたいして役に立たないんだよね。それに、ネットを利用していて、一番歯がゆいと思ったことは、「何となく検索してみる」ということが出来ない。もし本物のお店でならば、ぶらぶらすればいい話だけど、それが出来ない。ネット上のデータはあまりにもピンポイントだから、ぶらぶらしようと思ったら、結局つぶさに眺め回すしかない。ぶらぶらという軽快さが無い。それも、サイト側あらかじめ用意した表示順番と表示形式。情報と情報がつながることは難しくないが、受け手が自分でリフォーマットすることはかなり困難。勿論これはショッピングサイトに限った話ではないがね。
そこで、もしあのエンジンで本当に企業しようとしたら、何が必要かと考えてみた。先ずは、プログラムの軽量化だよね。そして特許申請。そこまではいい。問題はどうリリースするかだ。勿論使うのは利用者側だから、製品版有料ダウンロードしてまで使う人はいないだろうと思う。かといって、独自のサイトを立ち上げて、翻訳エンジンみたいにURLを打ち込んで表示する広告収入型もうまいと思わない。だからいっそのこと、直接ショッピングサイトにアタックして、このエンジンをレンタルの形にしてサイトに置いてもらう。そうしたら、利用先を限定できるし、そのフィートバックを直接ショッピングサイトに反映できる。刻一刻と変わるものであればあるほど、このエンジンの重要性はあがると思うよ。それに、サイトとの連携が出来たとすると、この表示エンジンにとって都合のよい画像やページのアーカイブを模索することが出来るし、マネージメントという面でサイト運営側のエンジニアに協力してもらえることもできるだろうね。
まぁ、ここまで言うと君が連絡を取ってパートナーとしてビジネスを立ち上げてみたらどうだ?と言われたが・・・やりたいのはやまやまだけどね。お金がないから出資者にも成れないし、プログラムの技術も無いからマネージメントをすることも出来ないし、経営知識も持ち合わせていないから共同運営者にもなれっこ無い。w
要するにただ考えてみただけだよw
2007-02-28
IAMAS 2007 その3
今回は前に書いた二つの分類に当てはまらない作品の中で、自分的にヒットしたものを書きます。
アカデミー生の荒木淳平さんのlandscapeと言う作品は、真っ暗な小さなスタジオの中にたくさんの糸を張りめくらされていて、そこに小さなスピーカーがぽつぽつと何種類かのノイズを出す。これは評価云々と言うより、体験してみるべし。
最初暗くなってみんな慌てて腰を下ろす。で、安定した姿勢を探すためにもぞもぞ動く、誰か軽く咳をする、鼻をちょっと鳴らす、ノイズは流れ続ける。ふと目を閉じたり開いたりしてみる、全く変わらない。右で服ずれの音がする、友達がいるであろう位置から一瞬荒い息が聞こえる、自分の息の音に気づく、ノイズは流れ続ける。
そういう世界です。最後に自分がつばを飲み込むときに、その一連の筋肉の動きがむちゃくちゃうるさかった。ノイズに満たされた。
同じアカデミー生の野路千晶さんのひらがな標本も面白かった。「あ」から「ん」まで、一つ一つのひらがなを全国各地から「採取」してきて、「生態環境」を再現しながら一つ一つを丁寧に標本化していった。その説明の一つ一つに詳しい「採取地」とそれぞれの「生態」とそれにまつわるエピソートを詳しく書いてあった。お土産にいかが?いえいえ、自分で見つけてこればいい話だ。w
あと、
IAMAS Media Laboと名前の展示室があって、細かい実験的な作品が雑然としている作業部屋の中に散りばめられていた。ちょっと気になったのは、ボーイスレコーダー。引き出しを開けたら録音開始、閉めると録音を元にした大まかな音が流れる、再度開けたら録音再生。要するに、一度録音を劣化(単純か)させてインデックス化する。そしてそれを聞いて大まかの内容を想像して、聞きたいなら聞く、嫌そうな内容なら聞かずに廃棄。例えば、開ける前にうれしそうな話し声が聞こえたらすぐに引き出しを開けて聞く。これは怒ってるっぽいって事前に思えば知らなかった振りをする。これは面白い。元データーをいかにして的確にインデックス化するかは重要だけど、人が情報を受け取るときの曖昧さをうまくついたものだと思った。
もう一つ面白いのは、手に収まるくらいの円柱があって、二重構造の筒の中に本体の回路があり、切断面に人の形を表示するディスプレイがある。本体の回路がおもりになって、円柱を転がしても中のディスプレイは水平を保つ。似たような構造のおもちゃを子供の頃に遊んだことがある。そして、円柱を転がすと内側の本体は速度に応じた傾きをする。その傾きに応じてさらにディスプレイの人が歩く、走る。これはよく出来たものだと思ったが、残念ながら試作品で正確には動かない。完成したら机の上に一つはほしいかもしれない。
とりあえず三回にわたって、IAMAS 2007の気ままな感想を書き終えました。僕は基本的に映像と電子音楽についてさほど興味は無かったもので、その分野には確かにすばらしいと言われる作品もありましたが、僕はあんまり理解できなかった。だから手のおえるものだけを取り上げて、書きました。参考かなにかになれれば幸いです。
このブログ自体、自分の整理のために書いていると言うこともあって、ディスカッションは歓迎です。何かありましたコメント欄にどうぞ。
2007-02-26
IAMAS 2007 その2
IAMASの二回目は UI
ユーザーインターフェイス関連の感想。
ユーザーインターフェイスで一番面白いのは土田哲哉さんのサイトグラフィックという作品。一つのサイトのトップページを基準として、URLのつながりを元にそのサイトの階層を作って、それぞれのページの縮小で全体表示をする。細かいところは、URLのつながりを表示させたり、階層を縦、横、同心円配置で見せたり、ページのURLの接続されている数(つまりGoogle形式のランク付け)に応じて大きさを換えたりと、いろいろな見せ方をしてくれます。一つのサイトの全体を見渡すのにとても便利、それも制作者と閲覧者のどちらにとっても使える。特にショッピングサイトのような莫大のページを抱えるものにはうってつけです。格子におさめられたコレクションのようで、ビジュアル的にも美しい。
その作品からちょっと発展して、階層を決定づける検索エンジンを変えればものすごくたくさんの可能性があると思いましたね。例えば、絵の構図を抽出して、Web全体で似たようなページ(あるいは画像)をつなげて集めるとかね。あとはブログのエントリごとの要約を抽出して、内容の似たもの、あるいは内容の変遷をたどる形で、ブログ内の文章を再レイアウトとか。URLと基準にするということはかなり物理的(力学的?)な構造だけど、そこに人が情報処理するときに用いるスキーマー的な感覚を持ち込むと、Web全体の情報の再利用や、個人個人の情報処理の円滑に一役買えるのではないかと思いました。
このプログラムを使ってみたいと思ったけど、まだ実用できないらしく、デモンストレーションも公開していないのは残念。
ちなみに、この作者はもしかしたらうちの大学の卒業生かもしれない。もしそうだと知っていたらもっといろいろ話をしてたのに。w
アカデミー生の尾関洋さんのカスタマイズスクリーンキーボードという作品(というよりソフトウェアーそのもの)はちょっと違う意味で興味が引かれました。作品の内容は配置されているボタンに自分で好きにキーを割り当てられると言うプログラムです。カスタマイズ性は評価できるが、それがハートの入力でバイスと連携するように作っていないのでどうしてかと聞くと、これは身体に障害を持っている人を対象としたものだと説明された。普通のキーボートを使えないという前提なら、このソフトをハートとの連携を計った方がよりよいのではとさらに聞くとちょっと予想外な結果が返ってきた。
この作者自身も身体に障害を持っていて、その話によれば障害者に適している入力デバイスはその人の障害の程度によって千差万別である。自力ではハートを入手できないので、そのために他人に頼むこともまた本人にとってはストレスに成りかねない。そのことからダウンロードすれば入手できるソフトウェアーで全てが出来ることを目指したという。
なるほど。僕は常々情報操作に置いて、勿論それだけではないが、体がより直接介入すればするほど、本人にとっては慣れ易いと思っていた。しかしこれはあくまで健常者(便意上とりあえずこう呼びます)の日常のを基盤として考えていてた結果で、障害者を視野に入れれば、その根本的なところの条件が変わる。自分にふさわしいものを手に入れるだけでも一苦労する人には、僕が少々不便と思えるものであっても、簡単に入手できるという点だけでもとてもありがたいと認識したことは無かった。対象によっては配慮すべき根本的な条件を設定し直さなければ成らないという教訓を得た。これはとてもありがたい。
その他のものとしては、高齢者向けのコンピューターを操作するためのランチャーや、携帯電話を操作デバイスとして作られたブレインストーミングツールなども中々興味深かったです。UIの中でも、特定対象のニーズのためのUIと、人の情報処理を手助けするUIと分類することもできるる。これもこの分野でのなかれなのだろうか。
2007-02-25
IAMAS 2007感想 その1
前に言っていた通りIAMASに行ってきました。同伴者はmaricoさんとyouさんとなぜかS先輩・・・w 加えてマヨマヨは途中参加。
で、ほぼ一日をかけていろいろ見て回ったけど、ものすごく面白かった。アイディアもいいし、それを支えるきちんとした技術力もすごくよかった。
で、その中にあるもののいくつかの感想を書いて行きますが、大まかに分けて三種類。一つ目はアルゴリズムシステム系(勝手にネーミングw)。外界から入力された情報をある一定のアルゴリズムにかけて、その結果をフィードバックする種類。二つ目はUI、ユーザーインターフェイス。三つ目はその他で僕が面白いと思ったものをいろいろとチョイスします。
今回は一つ目 アルゴリズム
この展覧会で自分的に最も面白いと思った作品は吉田麻実子さんのfickle echoesです。
上にぶら下がる振り子の音がインプットデータで、その下に位置するガラスが起こす共鳴がアルゴリズム、そして生まれてくる音がアウトプットデータ。言葉にするとなんだか複雑だけど、実にシンプルで、身の回りにある様々なガラスの器がこんなにもしたたかに連動しているのかと思わせられました。美術史的な評価はとりあえずさておき(もしかしたら昔の焼き増しだと言われるかもしれないが)、何時間でも床でじっとして聞き入ってしまいそうな作品でした。
上の作品と同じように実際のものがアウトプットをするということで、邂逅 わくらばという作品がすごく面白かった。
砂利を踏む→間→踏んだところが小さく跳ねる。という仕組みの作品。アルゴリズムは電子回路によって制御されているけれども、まるで自分の知らない他人(あるいは自分)が追ってくるように、とても不思議な存在感を感じさせる。
人の行為が物理的に跳ね返ってくる。またそこから不在の何かを感じさせる。楽しくて不思議な作品でした。さらに砂利の反応を細かく突き詰めて行くともっと面白いと思いました。
今回のポスターはとてもカラフルなシャボン玉模様だったが、実はそれも一つのアルゴリズムシステムでした。IAMASアカデミー(専門学校)生の坂本恭子さんの作品のテキストからグラフィックをつくるです。
構造としては、まず一つの文を単語レベルに分解する。最初の文字で色、単語の字数で大きさを決め、並べて行く。句読点までに一行として、そのつど配置を新しく決める。
全てのひらがなに色を割り当てて、あとは作者の用いる単語で全てが決まって行く。作品として展示した中に「銀河鉄道の夜」や芭蕉の俳句集もあって、作家によって全く違う秩序が出るところが面白かった。
入力した音をビジュアル化して、オブジェのように扱えるようにするパフォーマンスの作品もありましたが、時間が合わなかったため見れませんでした。これはちょっと残念でした。その他にペンタブで入力された位置情報を元に、筆の加速度を音と3D座標で見せるような作品もありました。S先輩に自分はこのようなアルゴリズムシステムが好きと言ったら、最近の流れとしていろんな作品があることを教えてもらいました。こう言ったものは結局アウトプットの落とし込むところがすごく重要で、いろんなうまいアイディアは自分なりに消化する必要があるなーと思いました。
ちなみに関係ないけど、学校の課題で自分の作ったFlashもこう言ったタイプの作品だったので、ちょっと公開します。
その1 バブル
その2 ネオン
Action Scriptと色の扱い方がまだ結構未熟なので、温かい目で見てください。おまけに重いです・・・汗
2007-02-18
最終回(?) パラレルワールドの矛盾
タイムスリップの話を長い間、ほったらかしにしてしまいました。一応、考えられることは一通り考えたと思うけど、どうでしょう。最後にパラレルワールドで生じる矛盾をまとめて、終わろうかと思います。
で、その矛盾点を話そうと思ったら、友達のくれたコメントにおよその内容が全て含まれていた。w なのでそれを抜粋しつつ、僕の考えたことを話します。
先ず、パラレルワールドの間のずれの具合について
それぞれの軸の時間的差がどの程度なのかってこと。一秒くらいなのか、十のマイナス何乗秒なのか。
全くその通りです。パラレルワールドにおいて、もっとも厄介のは、このどのくらいずれるかということです。そして、パラレルワールド同士が時間的につながっていないから、数学で言うdx,dyとも取れない。言ってのタイムラグよりも短い間のタイムスリップが不可能。
次に、軸同士の歴史の関係性について
それぞれの軸の歴史は同じなのか違うのか。promeの考察を見る限り、(a軸の自分とb軸の自分がちゃんと存在しているから)どの軸も同じ歴史を辿るみたいだけど……。a1軸がb1軸に干渉して、a2軸がb2軸に干渉して……ってすると、いつかan軸とb1軸が重なってしまうと思うんだけど、そうなると「辿る歴史は同じ」って前提が変わってしまうよね。
これは正にその通りです。というのも、先ずタイムスリップが可能というふうに仮定をたてた上で考えなければならないから、「辿る歴史は同じ」を先ず前提条件にした。しかし、そうやって進めて行くと最後は結末が異なる軸が出てくるという矛盾が生じてくる。(前にも言ったけど、あくまでタイムスリップの「不可能性」を証明するための思考ですw)なので、この大前提は崩れます。
それに、僕は確率で全てが決まるという考えに基づいているから、(量子論の影響が絶大)ほんの些細なifのずれで、全く異なる歴史の軸が生じることも全然不思議ではない。(どうしてと言うと、「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」という言葉に代表されるカオス理論に関係するから、if次第で結果が何になるかは予測不能。)
一応、anとb1の話は、aがbの過去に作用するから、bになった軸はaには成れない。bの過去が変わるから、aのように歩めない、だからaに成れない。
次は、軸の個数 無限or有限
無限個の軸があったとしたときに、それぞれの軸の差がどのくらい小さなものであっても、数多の軸を隔てた二本を比べると数秒単位どころか年単位の差が生じる可能性があるってこと。一つ目の理由の答えがどうあれ、この問題は発生してしまう。地球誕生前の軸と地球消滅後の軸が同時に存在しても、違和感こそあれど理論的には問題なしということになるのかな。
一応、軸の数が多ければ、同時におよぶ時間軸が広ければ、それだけタイムスリップの自由度が増す。ということには成るけど、パラレルワールドでの自殺の場合、aから見て+∞〜-∞がともに存在することは不可能ということなったけれども、これは無限であることが不可能ということになるかどうかはよくわからない。もし起点が存在しても、無限が存在し得るなら、どんな過去にも到達することが可能になる。
しかし、そうでなければ移動の幅が制限される。そして、最も遅れている軸はタイムスリップ自体が出来ないことになる。これも矛盾っぽい気がする。
というのが、自分で考えていて、矛盾に思ったことでした。
で、それから導かれる結論は、起点のずれるパラレルワールドであっても、それを思い通りに過去にさかのぼることはできない。つまり、タイムスリップ不可能。あるいは、たとえ軸間同士での移動が可能だとしても、タイムスリップという性質は帯びなくなる。これが結論です。
ちなみに、パラレルワールドのあり方に次いでだけど、実際宇宙が誕生するときに、起点にずれのあるパラレルワールドが生じる可能性があるとのことです。(newtoneにも載ってた気がする)そして、それが一本軸でのタイムスリップとのプロセスが異なるので取り上げました。パラレルワールドのあり方は、起点がずれるか否かはたぶんどちらでもありうることなので、特にそれにこだわることはありません。ただ、起点がそろうことはタイムスリップ的には一本軸と全く同じなので、特筆していません。それに、起点が一緒であっても、上にある説明にあるように、全く同じ世界が築きあげられることは考えがたい。なのでどちらにしても、「他の世界にある自分は・・・」という考え方は出来ません。また、この点に気づいたことも今回の成果の一つだと言えると思う。
それに、僕が上げたあの図はあくまで「パラレルワールドとしてタイムスリップ可能の状態」を図にしたもので、その先には今上げたような矛盾がたくさんあります。
随分長かったけれども、「過去は変えられないものである」ということを証明できたのかな。w
2007-02-16
その3 O先輩
さて、次はO先輩の修論です。
O先輩は先ず、もの動きそのものを一つのシステムとして、そのインプットとアウトプットを外界との境界面としてとらえて、その二つの境界面に挟まれた中の営みを一つの空間をした。人がものに対して作用する、この接点が一つ目の境界、ものが外部へと働きかけることが二つ目の境界である。そしてものが働くプロセル(インプットとアウトプットに対して演算部分にあたる)が含まれる空間は不可視であることが人にとってのブラックボックスということになる。そのことから、人がそのものを理解しづらい、操作がわからないと言ったことにつながる。
そのことの改善策の一つに、O先輩はもの自体が能動的になるということを提案した。そこで提示した例としては長方形の立体があり、それが人が持ち上げると、立体の上面にある、四つ並びのボタンの一つがういあがって、突起する。その装置を動作する、動作しないの二通りに分けて、被験者に持ち上げてもらって、そのものに対する印象を求めた。そこで出た答えは、動作しない方は何のものがわからないや、分解してみたいに対して、人の動きに連動して動作する方は親近感が湧くなどといった興味を示すようなコメントが多かった。
ものが積極的に人の動きに反応し、さらに目にわかる形で積極的に外界に働きかけることで、これまでとは違ったアフォーダンスを持ち、ものの持つ空間が縮小されこれまでのブラックボックスの構造を変えることが出来る。というようなことでした。
発表のあとに、Y先生からこう言う質問があがった。ものが能動的になるということは、新たな要素が付加されたのか、それとももの全体が変わってしまうのか。と言うものだったが、O先輩は実験では動作しない方に比べて、動作する方はものの全体に対するイメージのコメントも多く、そのもの自体に対して愛着を持つとか、親近感が湧くとかというものが多かったので、それはものの全体が変わったことになるというふうに応えた。
ものが能動的に動く。このことは僕的にもものすごく興味はあるけれども、イメージが変わるということは二つのプロセスを経ているような気がする。一つはものに動作を付加すること。もう一つは、人がその付加された動作からこれまでにない印象を受け取ることである。能動ということはもの自身に対して「変貌」という要素を加えるというふうに思う。そして人の印象はゲシュタルト的と言うか、それをとても重要な要素として、もの全体を理解する際に使われると思う。
なんか上手く言葉に整理できないけど、「ものの変貌」ということで、とても気になったものが二つ。
http://www.youtube.com/watch?v=fFnNKIYljLw
http://www.youtube.com/watch?v=T5pNwG2nK6Y
上は詳しいことはよくわかっていないけど、下の方はHussein Chalayan の春夏のファッションショーの後半部分。ここには入っていなかったけれども、STYLE.COMの方でポットキャストとして配信していた方にはものすごく歓声が入っていた。とてもわかる気がした。
↓こちら
http://www.youtube.com/watch?v=o7npi_rzE6k
2007-02-14
修論レポ その2
Y先輩の発表の中で、15のゲームというのがありました。
1から9までの九つの数がある。あなたと相手が交互に一つの数を取る。一つの数字は一度しか取ることが出来ないので、相手がある数を取ってしまえばあなたはそれを取ることはできないし、そして、三つの数の合計が先に15になった方が勝ちである。
このゲーム難しいと思いますか?実はとても面白い回答があるのです。
8 1 6
3 5 7
4 9 2
として並べれば・・・○×ゲームそのものになります。
Y先輩はこれを情報の提示の仕方によって、人の受け取り方、そして感じ取る難易度が違ってくるということを示した例としてだしました。これはおそらくD.A.ノーマンの「誰のためのデザイン?」という本からの引用だと思います。実際、今僕はそこから引用しました。ノーマンがこれを提示したのは、人の脳の中の思考パターンの特有性でした。プロセスが浅く広い(選択肢が多く、結果がすぐに出る ex.○×ゲーム)あるいは深く狭い(手順が多いが、選択肢が少ない ex.レシピ)場合、人は簡単だと感じるということです。これを学校のレポートのために読んだすぐだったので、すごく印象に残りました。逆に、ノーマンはこれを思考のスキーマー性の説明に使っていたので、会場で聞いたときはいまいち高齢者の認知の説明としてしっくり来ないと思いました。
さっきはその人の理解できる文脈と言いました。それを言ったあとに、同じノーマンのこの本のメンタルのことを思いだした。これはこの15のゲームでも確かに通じると思った。つまり、自分の理解できるメンタルモデルを持てることで、人は学習しやすくなるということでした。これに応じて、特に高齢者がわかるメンタルモデルを提案することもまた一つの回答かなと思いました。世代によって共通認識が異なってくるから、それらに特化したものも高齢化社会に対するプロダクトデザインの回答の一つだと思いました。だから、わざわざ高齢者に携帯電話で写真を撮ってもらわなくていいし、それはそれで、若者特化していてもよいのじゃないかと思いました。その代わりに、団塊世代が高齢化するまで、高齢化社会にアプローチしたデザインを分野、マーケットともに確立するのもいいのではと思いました。こう考えると、何もユニバーサルをとることは無いような気もします。(全てにおいてではないが)以前、というか高校のときに、先生から福祉の話をちょっと聞いたことがあって、ノルウェー(?)スウェーデン(?)どっちかが忘れたけど、そこの国が障害者にとってはとても暮らしやすいみたいです。しかしだからといって、道に段差を無くすとか、誰でも使えるとかという取り組みではないみたいです。障害者はきちんと国から補助をもらって、それで付き添いの人を雇う。だから、みんながみんなという発想ではなく、一人一人に特化したという考え方。ユニバーサルは最大公約数的なところもあるから。高齢者、障害者、マタニティーなどなどの問題には、そのような解決策も在かと思いました。
しばし脱せんでした。
修士論文発表会のレポート その1
今日はうちの大学の修士の論文発表会に参加したので、理解を深めるための重ねて、ここにレポートをちょっと書きます。本当に発表を聞いて、その記憶をのみ
頼りにしているので、独断と偏見な個人的感想なので了承ください。
先ずはプロダクトの四人の先輩。全員が認知関係の論文でした。
先ずは一番とに番に発表したS先輩とY先輩の論文です。S先輩は情報系のプロダクトのハートのデザインとソフトのデザインの間に生じている乖離状態について、ソフトとハートをともに扱う総合的な評価の仕方への提案でした。Y先輩は、高齢者にとって「新しい」ものへの認知についての論文でした。
両者はともに、人がハートを通じてソフトへの認知の行為においての研究だったけれども、一つのものをちょっと角度をずらした視点の論文だと思いました。
S先輩は情報機器の方で、人はものを扱うときの動作にでものを理解し、考え、覚えている、と論じて「ユーザービリティー=操作の慣れやすさ」という公式をたてて。だからもののきまった動作にきまった行為を割り当てることで、そのソフトへの認知をスムーズにしていき、より人の思考とものとの距離を縮めると言うような内容だった。
Y先輩は高齢者が一眼レフ、コンパクトデジカメ、カメラー付き携帯のさん種類を使って、写真を撮る行為とデーターを消す行為を実験して、高齢者特有の認知のパターンを探った。実験結果は、機能の複合機である携帯はものすごく使いづらく、コンパクトデジカメが最もわかりやすかった。携帯では、名前のついたボタン(アプリなど)は何度も押すけど、デフォルメされたもの(ゴミ箱のマークなど)にはあまり気づかない。あと、画面上のサブメニューやアイコンにも気づかず、操作がとてもはかどらなかった。一方、コンパクトデジカメはボタンの機能はは単純で、見やすくて扱いやすかった。そこで、最後の結び的なところはよく覚えていないけど、とにかく、ソフトな機能がハートと簡単に対応付けした方が最もわかりやすいとのことだった。
この高齢者の問題に関しては、先輩がどれほど触れたかわからないけど、やはり社会的な共通認識が若者やその他とはギャップがあり、こう言う場合はこう言うことが起るという共有されている常識が少ないため(特に情報機器類)、それはデザイン自体云々より、デザインがその人にわかる文法でデ・サイン(印を示す)されているかどうかと思った。同じ情報処理をすると言っても、漢和辞書の使い方なら、今風の若者よりは詳しいし、こう言うときはこうすべきと言う文脈をしっかり持っている。デザイン自身を認知心理学でとらえるのと一緒に、その人あるいは年齢層、文化背景にある人が理解できる文脈に沿ってデ・サインされているかどうかもまた問題だと思う。携帯はともかく、もし被験者に若者がいても、一眼レフには同じように戸惑ったと思う。
そして、S先輩とY先輩が共同実験もしていて、人がポジティブ感情(合ってるかな・・・)の時、おそらく要するに気分が高揚しているとき、人の思考能力が上がり、認知そのものもしやすいということを結論づけている。そのことから、人から好かれるものは認知されやすいというように導いています。たぶん要するに、愛着がものへの距離を縮めるということだろうか。質疑応答のときのM教授が「つまり快、不快?」という質問に対してS先輩が結構曖昧な返事だったが、その通りじゃないかなと思った。ポジティブ→高揚→愛着→好き→快・・・かな、自分的にはそんな流れ。矢印が逆の方がいいかな。
一休み
*注
そんなことも無いと思うけれども、もしも発表した本人が読んでいたら、謝りの言葉を先に述べときます。完全に理解するのに十分の知識も理解力も無いので、誤った理解や、一部の拡大解釈、それに的外れな意見感想は御許しください。図書館に論文が出たらじっくり読みます。
逆に指摘を頂けたら幸いです。
2007-02-12
友達の失踪
最近はちょっと厄介な風邪を引いてしまって、頭のねじが緩みっぱなしです。
なので、タイムスリップの話はちょっと待ってください。
その代わりに、一つ。
友達のオカジが行方不明になりました。w
もちろん現実世界での話ではありません。どうやら、彼はネットの世界から一時姿を消したかったらしい。それで失踪です。
それを彼はどうしたかと言うと、先ずmixiをやめて、ブログで失踪宣言して、そして、今ではチャットで話しかけでも無視され、すぐに落ちてしまう始末です。w
しかし、君は本当にそれで消えたのか?
否。決して消えてません。すくなくとも、僕は毎日君をネットで見かけます。というのも、君がありがたいことに、この更新の怠慢なブログを毎日見てくれていることを、アクセスログで毎日チェックしてます。そして、君がMSNにログインするとき、僕は話しかけるタイミングを知るために、自分のiChatにその都度 "Okaji is login" と言わせています。
つまり、君が他人とネットを会して接触すると必ずや残ってしまう痕跡で、僕は毎日君を見ています。こうなってしまって、は姿を消したうちには入らないよね。
そして、君のその失踪で何より僕が考えてしまうのは、いったいネットに出現することや消失することはどういうことなのかということだ。おそらく現時点、君の定義している姿を消すとことは、自分自身がネットを通じて誰か他の人と接触しないことなのだろう。もし違ったらごめん。というのも、連絡も取れない今になっては、僕には確認のしようがないから。しかしそれは「消える」ことなのか?
「足あと」という単語はもちろんしよく知っているんだろう。では、なぜそれは「アクセスあと」や「出現あと」では無いのだろうかね。僕はそこからちょっと考えたんだよ。
つまり、現実世界においても、存在は行為と情報が共存しているんでしょう。そのどちらかだけということは成り立たなくて、常にセットとして人が受け取るんじゃないか。
話すことは身体を動かす行為があり、情報を伝えるコンテンツもある。それが手紙に変わったときに、文字情報にその筆者の行為を読み取るわけだ。電話だと、もっとダイレクトだ。こういう風に考えると、ネットでは?
ネットでは身体や行為は無いだろう。あるのはただの情報だけでしょう。しかし、「アクセスあと」としないのは、人が他人をとらえるときには行為も無ければ行けないことが原因なのではないだろうか。
つまり、それを君に置き換えると、どこかと接触したことが痕跡として残してしまったら、もう君は存在したことになる。どうしても消すのだとしたら、痕跡を残さない、痕跡を知られない。しかしその場合も、君が自分の存在を消すための行為が生じ、(誰かにとってではも無く、何より君自身にとって)さらにくっきりと存在が浮かび上がる。
あるいは、2chみたいに、個を特定できなくする。が、これも誰かが存在しなかったのではなく、オカジも含む誰かが存在したというふうにぼかすことにすぎないのだ。
だから、もし姿を消すのだと言うなら、コンタクトを切るのではなく、いっさい自分からの接続をたたない限り成り立たないことじゃないか。君のこの実験の目的は詳しく知らないが、それはただのカムフラージュだ。そして、オカジは確実にネットに存在し続ける。
こういうことを考えると、どうしてもゴストインザセルを思いだすw
2007-02-08
パラレルワールドとはどんなものか
パラレルワールド。この概念は宇宙が誕生するときに生じるずれによって時間のスタートが異なる空間が無数に生じると言うことから来ている。(らしいw)
先ずはこの概念の構造から行きます。
以前、パラレルワールドは僕が前に書いた図のようにではなく、分岐点によって作られる分かれ道がたくさん存在する裾広がりなものではないか、と言われたことがある。
このことに対する答えはこうだ。分岐点によって、変わってしまうのは状態の方であり、空間が分岐点によって別れることは無い。例えば、箱の中にリンゴがあるかどうかと言うことを分岐点とする。ある、ないの二通りの状況が生じることがある。(もちろんそれ以上の選択肢もある。)しかし、ここに箱というモノ自体が無ければ、この分岐点(リンゴがあるかないかの問題文)が存在しない。
つまり、分岐点によって、多様になって行くのは状況であるが、その状況が存在するための空間が必要となる(この場合の箱)。リンゴがあるかないかによって、箱が増えたりすることは無い。このことと同じように、空間が裾広がりになって行くことは無く、その存在自身は変わることは無い。
空間の中の状況の可能性を示すことに裾広がりして行く樹形図を用いることは可能だが、空間はそれとは関係ない。だから僕はあのような図を使って、パラレルワールドの構造を考えている。
では、今度は平行に並んでいる軸の中の状況はいったいどのようになるのかを考えてみる。
僕が前に、世の中は確率で成り立っているとと考えている、と言ったことがある。そこは正にこのことを考えるために示したものでした。つまり、いつ、どのような分岐点が現れるか、またその分岐点に対する選択がどのようになされるかと言うことは、その時々の確率でしか求められないことだと思うのです。ちょうど分子のβ崩壊のように。
それに、以前パラレルワールドの構造に関する問題の時で、もしパラレルワールドが有限個だとしたら、ループの一周期を満たない軸では、違った道を歩むと言うふうな結果にたどり着いた。つまり、場合によっては、同じ道を進むことが出来ないのです。
そこで僕が最初の頃から考えていたもう一つのことは、もしパラレルワールドが存在しても、それぞれの軸が全く同じような状態でいることはほぼ不可能に等しいのではないかと言うことです。それはなぜかというと、今ある状況は、これまで全ての分岐点でなされた選択によって成り立っているからだ。
パラレルワールドであるが故の矛盾を、次回さらに考えてみます。
2007-02-07
中間まとめ
随分といろいろ考えました。楽しかった、でも結論まであと1マイル。w
前の方は正直勢いに任せて書いてしまったもので、これからはどうか書けばいいかとちょっと迷っている。
とりあえず手始めに、これまで考えたケースバイケースを羅列してみる。
時間の流れに関する考え方は一本軸の場合とパラレルワールドの二通りがある。
一本軸の場合は、過去に戻るとき、その間の営みが無限ループとして成り立つものであるならば、一応、流れ的には成り立つ。
昔に戻って、自分を傷つけることは可能。それが自分の古傷の元となる。
昔に戻って、誰かを殺すことは流れ的に不可能ではない。しかし、過去において被害者が死んでは、タイムスリップをする動機がなくなるから、事実上不可能。
最後に自殺の場合だが、これは順序的に矛盾があるので、あり得ない。
パラレルワールドの場合はたくさんの起点の違う空間が共存していて、その間に行き来することによってタイムトラベルをする。この場合、一本軸と異なるのは全ての軸において連続ループすることが成り立つことが存在条件となる。
昔に戻って昔の自分を傷つけることはできる。しかし、次元の違うので、その結果が傷つけた本人には反映されない。そして、傷つける軸と傷つけられる軸が交互に繰り返される。
昔の誰かを殺すことも可能。しかし、これも上と同じく、殺した人のいる世界には反映されない。
パラレルワールドでは、過去のとして存在する自分は今の自分とは「他人」なので、過去に戻って自殺することは不可能ではない。しかし、これはパラレルワールドが有限個に存在する場合に限った話であり、もしパラレルワールドが無限に存在するならば、一本軸と同じような矛盾が生じ、不可能となってしまう場合もある。
一個一個の場合の条件によって、存在条件がかなり違ってくるが、これらに通じる共通点としてあげられることは、一度過去として存在し得たものは二度と変わることは無い、と言うことです。これらのうちに、変化してしまうことが可能なのは全てパラレルワールドにおいてのみであり、時間が遅くズレている軸でも未来においてだけである。
つまり、これまでタイムスリップに見いだした価値(「過去」を変える)と言うものは存在しないと言うことにもなる。
そして、ここでも一つ疑問。そもそもパラレルワールドは存在するのか、あるいはパラレルワールドにおいて今言ったようにタイムスリップすることが可能なのかと言うことです。次回はパラレルワールドについて考えます。
2007-02-06
タイムスリップに対する僕の考え
一通り考えていたシチュエーションは書きました。正直、書きながら考えを進めるところも結構あったので、所々穴はあいてるんじゃないかなーって思います。気づいたら遠慮無くどうぞ。
こう言うことを書くってことは、いきなり本題をずらずら書く以前に、自分の考え方の基本と言うことを書くべきだったよね。今回はそれについて少し。
先ず、タイムスリップは可能である。これは大前提。以前これの考えを進めるために、オカジ(今はなき)にいろいろ物理的なことを聞いたが、どうやら、無理ではないけど、現代技術ではまだ不可能。でもやり方はあるそうだ。それに、このことに関わらず、これだけ「タイムスリップ」と言う概念が普及しているんだから、空想科学的に考えてもいいんじゃないかとも思ってね。一応、考えたところで何になるか分からないことを延々と考えてみました。
もう一つは、物理を使わない。科学的、されに言えば物理的な概念は出来るだけ最小限にとどめること、というのは僕の手に負えません。高校で真面目にやって、赤点をとったのは物理だけでした。www 今更の赤恥ですね。
光と重力とか、相対性理論とか、そういうものはいっさい出したくありません。自分自身が理解に苦しむから、それらを使わなくても何とかなるんじゃないかと思って、ひたすら形而上的に(これはこれでちょっと違うかもw)考えて見ました。
最後の一つは、世界は確率で成り立っていると言うことです。このことは今まで全く登場したことはなかったけれども、僕が世界をとらえるときの基本法則ですね。我思う故に我有り(je pense, done je suis 大好きな言葉です。)と並んで、僕が世界を解釈するときの第一法則です。
どうして確率の話が出てくるかというと、これからパラレルワールドの話をまとめて行くときに、最終的にはこれに突き当たる(僕の場合はね)。だから先に言っておきます。
以上は僕の考えていることです。もう一つ付け加えるとしたらですね、今を生きることです。何もタイムスリップをして過去を変えようと思って、そういうことを考え始めたことではありません。むしろ途中からは、それは出来ないと言うことを証明するために考え進めていたのです。最初のうちは、世界のあり方、そして条件を少し限定したら、過去を変えることもできることじゃないかと思ったけれども、それは出来ないと分かった時点でかなりほっとしました。なので、今を生きましょう。過去を変えることから始めてこのような結論になるのは、パラドクス的ではあるけれども、すごく報われました。
では次は本題のまとめをして行きます。
2007-02-05
パラレルワールドでの他殺
他殺です。犯人はsoso、被害者がyou。
実はこの他殺議論をパソコン室で大声あげて議論したから、結構周りから変な目で見られた。(かもしれないw)
t1において、soso(T1s)とyou(T1y)はお友達。しかし、ときがながれて・・・省略、以降一本軸出の他殺を参照w
T2sはT1yを殺すためにb軸のt1へタイムスリップした。そして怨念込めてb軸にいるT1yを殺害。そのご時空逃亡。T1sは悲し見、T2sはすっきり。・・・と思いきやa軸にいるT2yは生きたままです。T2sにとってはあれほどの苦労をしたのに、現状は何一つ変わっていません。・・・結果は以上です。一本軸の場合は他人殺しも出来ないので、a軸ではT2sは忌々しい思いをしながらT2yとともに生きています。そしてb軸では、T1sは犯人が誰か分からないまま殺され親友のT1yのことを悲しみながら生きています。
誰の言葉かは忘れたが、「世の中に、やりたいのに出来ないことと、出来るけどやりたくないことの二つしか無い。」あぁ無情。
さらに一つの選択肢がある。T1yの消えたb軸でT2sがT1sとして生きて行くことだ。そうすれば、忌々しいyouとともに生きなくても済む。・・・しかし、T2sがT1sとして生きて行くのに、T1sが邪魔だ。同じ人間であるけれども、経験の長さと記憶が違うから、アイデンティティーが違う。これでは、T2sが望み通りの世界を手に入れるには、無情にもT1sを殺して、成り済ますしか無い!!!
ここではもうお分かりでしょう。ここからは前回の話です。つまり省略すると、世界が起点を持っていればT2sの望みは叶えられる。そうでなければ、無理と言うことです。
一応、これで一本軸とパラレルワールドの両方においての自傷、自殺と他殺について、それぞれ考えました。物騒な例えでしたが、そっちの方は分かりやすいでしょう。存在がもろに関わってくるから。
では次に一旦まとめに入ります。
