ABSTRACT
協同タグ付けとはキーワードを書き入れる形で、大勢の利用者が共有している情報内容に対してメタデーターを付けることを指している。現在、ブックマークや写真などといったコンテンツに対してタグ付けのできるWebサイトでは、協同タグ付けは一般的になりつつある。この論文では協同タグ付けのシステムの構造に加え、その力学的側面について分析をする。特に、この研究を通して、利用者の活用、タグの頻度、使われるタグの種類、そしてブックマークに於いての突発的な人気の規則を発見できると同時に、一つのURLに関係するタグの割合の注目すべき安定度をも見いだせる。また、それらの安定したパターンを再現や共有された知識情報に関連づけし、予測することの出来る協同タグ付けの力学モデルを提示する。
KEYWORD LIST
協同タグ付け、フォークソノミー(folksonomy)、Del.icio.us、ブックマーク、Web、共有
1. INTRODUCTION
キーワードやタグなど、テーマによって内容を印づけることは、フィルタリングや検索と言った現代的な情報活用のための一般的な分類手法である。この方法でデジタル情報の分類をすることは目新しいことではないが、これを協同的に行うことは支持者から「tagging」というふうに名付けられ、Webでは人気を得ている。
書類の保管所やデジタル図書館は保存している書類に対して、しばし指定されたキーワードによって分類している。しかし、伝統的な分類や目録の作成は司書などの一人の専門家によって行われる。あるいは、書類の著者が示している資料に由来している(Rowley 1995)。概要で述べたように、協同タグ付けは誰でも(特に利用者)自由にキーワードやタグを内容に付け加えることが出来る。協同タグ付けは「司書」の役割を果たす者が存在しないところ、あるいは単純に一人の専門家が分類するには量がありすぎるといったところでとても有用である。協同タグ付けが一般化したWebではこれらの状況がどちらも当てはまる。
この種の協同タグ付けは、意味論的なウェブ形而上学への現在の努力に、面白い選択肢を提供している(Shirky 2005)。以上のことがいくつかのグループの研究対象になっている(e.g. Doan, Madhavan, Domingos & Halevy 2002)。
現在注目されているWebサイトの多くは協同タグ付け機能を特徴としている。典型的には、タグを公開させ、内容を共有させているサイトでは、ユーザーは情報を自分のために分類することができるだけでなく、他人の分類した情報を拾い読みすることができる。従って協同タグ付けシステムには個人的と共通的な両方の側面が同時に存在する。いくつかのサイトでは、協同タグ付けはフォークソノミー(folksonomy)として知られている。これは「人々の(folk)分類法(taxonomy)」を短縮した単語である。しかし、この呼び方については適切かどうかの議論があるので(Mathes 2004)、ここでは使用を避けることとする。
私たちが分析したDel.icio.us というサイトは、共有のブックマークに協同タグ付けを許している。Yahoo の My Web でも同様にこれをやっており、CiteULike とConnotea は学術の出版物の文献紹介を作るのに同じ方法をとっている。いくつかのサービスが利用者にタグを使わせているが、内容だけを所持している。例えばFlickerは写真を、Technoratiはブログを。(タグ付けは協同ではない)この両サイトは厳密には協同タグ付けをしていないが、これらを話しに出したのは多様なメディアでのタグ付けの成熟度を説明するためである。
この論文では協同タグ付けのシステム構造に加え、その力学的側面について分析をする。特に、この研究を通して、利用者の活用、タグの頻度、使われるタグの種類、そしてブックマークに於いての突発的な人気の規則を発見できると同時に、一つのURLに関係するタグの割合の注目すべき安定度をも見いだせる。また、それらの安定したパターンを再現や共有された知識情報に関連づけし、予測することの出来る協同タグ付けの力学モデルを提示する。最後では協同的にな発生システムのユーザーの発展的なデーターの活用法に関する考察をもって締めくくる。
2008-02-04
The Structure of Collaborative Tagging Systems - 1
2007-02-12
友達の失踪
最近はちょっと厄介な風邪を引いてしまって、頭のねじが緩みっぱなしです。
なので、タイムスリップの話はちょっと待ってください。
その代わりに、一つ。
友達のオカジが行方不明になりました。w
もちろん現実世界での話ではありません。どうやら、彼はネットの世界から一時姿を消したかったらしい。それで失踪です。
それを彼はどうしたかと言うと、先ずmixiをやめて、ブログで失踪宣言して、そして、今ではチャットで話しかけでも無視され、すぐに落ちてしまう始末です。w
しかし、君は本当にそれで消えたのか?
否。決して消えてません。すくなくとも、僕は毎日君をネットで見かけます。というのも、君がありがたいことに、この更新の怠慢なブログを毎日見てくれていることを、アクセスログで毎日チェックしてます。そして、君がMSNにログインするとき、僕は話しかけるタイミングを知るために、自分のiChatにその都度 "Okaji is login" と言わせています。
つまり、君が他人とネットを会して接触すると必ずや残ってしまう痕跡で、僕は毎日君を見ています。こうなってしまって、は姿を消したうちには入らないよね。
そして、君のその失踪で何より僕が考えてしまうのは、いったいネットに出現することや消失することはどういうことなのかということだ。おそらく現時点、君の定義している姿を消すとことは、自分自身がネットを通じて誰か他の人と接触しないことなのだろう。もし違ったらごめん。というのも、連絡も取れない今になっては、僕には確認のしようがないから。しかしそれは「消える」ことなのか?
「足あと」という単語はもちろんしよく知っているんだろう。では、なぜそれは「アクセスあと」や「出現あと」では無いのだろうかね。僕はそこからちょっと考えたんだよ。
つまり、現実世界においても、存在は行為と情報が共存しているんでしょう。そのどちらかだけということは成り立たなくて、常にセットとして人が受け取るんじゃないか。
話すことは身体を動かす行為があり、情報を伝えるコンテンツもある。それが手紙に変わったときに、文字情報にその筆者の行為を読み取るわけだ。電話だと、もっとダイレクトだ。こういう風に考えると、ネットでは?
ネットでは身体や行為は無いだろう。あるのはただの情報だけでしょう。しかし、「アクセスあと」としないのは、人が他人をとらえるときには行為も無ければ行けないことが原因なのではないだろうか。
つまり、それを君に置き換えると、どこかと接触したことが痕跡として残してしまったら、もう君は存在したことになる。どうしても消すのだとしたら、痕跡を残さない、痕跡を知られない。しかしその場合も、君が自分の存在を消すための行為が生じ、(誰かにとってではも無く、何より君自身にとって)さらにくっきりと存在が浮かび上がる。
あるいは、2chみたいに、個を特定できなくする。が、これも誰かが存在しなかったのではなく、オカジも含む誰かが存在したというふうにぼかすことにすぎないのだ。
だから、もし姿を消すのだと言うなら、コンタクトを切るのではなく、いっさい自分からの接続をたたない限り成り立たないことじゃないか。君のこの実験の目的は詳しく知らないが、それはただのカムフラージュだ。そして、オカジは確実にネットに存在し続ける。
こういうことを考えると、どうしてもゴストインザセルを思いだすw
