2007-02-12

友達の失踪

最近はちょっと厄介な風邪を引いてしまって、頭のねじが緩みっぱなしです。
なので、タイムスリップの話はちょっと待ってください。

その代わりに、一つ。
友達のオカジが行方不明になりました。w
もちろん現実世界での話ではありません。どうやら、彼はネットの世界から一時姿を消したかったらしい。それで失踪です。
それを彼はどうしたかと言うと、先ずmixiをやめて、ブログで失踪宣言して、そして、今ではチャットで話しかけでも無視され、すぐに落ちてしまう始末です。w
しかし、君は本当にそれで消えたのか?
否。決して消えてません。すくなくとも、僕は毎日君をネットで見かけます。というのも、君がありがたいことに、この更新の怠慢なブログを毎日見てくれていることを、アクセスログで毎日チェックしてます。そして、君がMSNにログインするとき、僕は話しかけるタイミングを知るために、自分のiChatにその都度 "Okaji is login" と言わせています。
つまり、君が他人とネットを会して接触すると必ずや残ってしまう痕跡で、僕は毎日君を見ています。こうなってしまって、は姿を消したうちには入らないよね。
そして、君のその失踪で何より僕が考えてしまうのは、いったいネットに出現することや消失することはどういうことなのかということだ。おそらく現時点、君の定義している姿を消すとことは、自分自身がネットを通じて誰か他の人と接触しないことなのだろう。もし違ったらごめん。というのも、連絡も取れない今になっては、僕には確認のしようがないから。しかしそれは「消える」ことなのか?
「足あと」という単語はもちろんしよく知っているんだろう。では、なぜそれは「アクセスあと」や「出現あと」では無いのだろうかね。僕はそこからちょっと考えたんだよ。
つまり、現実世界においても、存在は行為と情報が共存しているんでしょう。そのどちらかだけということは成り立たなくて、常にセットとして人が受け取るんじゃないか。
話すことは身体を動かす行為があり、情報を伝えるコンテンツもある。それが手紙に変わったときに、文字情報にその筆者の行為を読み取るわけだ。電話だと、もっとダイレクトだ。こういう風に考えると、ネットでは?
ネットでは身体や行為は無いだろう。あるのはただの情報だけでしょう。しかし、「アクセスあと」としないのは、人が他人をとらえるときには行為も無ければ行けないことが原因なのではないだろうか。
つまり、それを君に置き換えると、どこかと接触したことが痕跡として残してしまったら、もう君は存在したことになる。どうしても消すのだとしたら、痕跡を残さない、痕跡を知られない。しかしその場合も、君が自分の存在を消すための行為が生じ、(誰かにとってではも無く、何より君自身にとって)さらにくっきりと存在が浮かび上がる。
あるいは、2chみたいに、個を特定できなくする。が、これも誰かが存在しなかったのではなく、オカジも含む誰かが存在したというふうにぼかすことにすぎないのだ。
だから、もし姿を消すのだと言うなら、コンタクトを切るのではなく、いっさい自分からの接続をたたない限り成り立たないことじゃないか。君のこの実験の目的は詳しく知らないが、それはただのカムフラージュだ。そして、オカジは確実にネットに存在し続ける。

こういうことを考えると、どうしてもゴストインザセルを思いだすw

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