2007-02-14

修士論文発表会のレポート その1

今日はうちの大学の修士の論文発表会に参加したので、理解を深めるための重ねて、ここにレポートをちょっと書きます。本当に発表を聞いて、その記憶をのみ
頼りにしているので、独断と偏見な個人的感想なので了承ください。

先ずはプロダクトの四人の先輩。全員が認知関係の論文でした。
先ずは一番とに番に発表したS先輩とY先輩の論文です。S先輩は情報系のプロダクトのハートのデザインとソフトのデザインの間に生じている乖離状態について、ソフトとハートをともに扱う総合的な評価の仕方への提案でした。Y先輩は、高齢者にとって「新しい」ものへの認知についての論文でした。
両者はともに、人がハートを通じてソフトへの認知の行為においての研究だったけれども、一つのものをちょっと角度をずらした視点の論文だと思いました。
S先輩は情報機器の方で、人はものを扱うときの動作にでものを理解し、考え、覚えている、と論じて「ユーザービリティー=操作の慣れやすさ」という公式をたてて。だからもののきまった動作にきまった行為を割り当てることで、そのソフトへの認知をスムーズにしていき、より人の思考とものとの距離を縮めると言うような内容だった。
Y先輩は高齢者が一眼レフ、コンパクトデジカメ、カメラー付き携帯のさん種類を使って、写真を撮る行為とデーターを消す行為を実験して、高齢者特有の認知のパターンを探った。実験結果は、機能の複合機である携帯はものすごく使いづらく、コンパクトデジカメが最もわかりやすかった。携帯では、名前のついたボタン(アプリなど)は何度も押すけど、デフォルメされたもの(ゴミ箱のマークなど)にはあまり気づかない。あと、画面上のサブメニューやアイコンにも気づかず、操作がとてもはかどらなかった。一方、コンパクトデジカメはボタンの機能はは単純で、見やすくて扱いやすかった。そこで、最後の結び的なところはよく覚えていないけど、とにかく、ソフトな機能がハートと簡単に対応付けした方が最もわかりやすいとのことだった。
この高齢者の問題に関しては、先輩がどれほど触れたかわからないけど、やはり社会的な共通認識が若者やその他とはギャップがあり、こう言う場合はこう言うことが起るという共有されている常識が少ないため(特に情報機器類)、それはデザイン自体云々より、デザインがその人にわかる文法でデ・サイン(印を示す)されているかどうかと思った。同じ情報処理をすると言っても、漢和辞書の使い方なら、今風の若者よりは詳しいし、こう言うときはこうすべきと言う文脈をしっかり持っている。デザイン自身を認知心理学でとらえるのと一緒に、その人あるいは年齢層、文化背景にある人が理解できる文脈に沿ってデ・サインされているかどうかもまた問題だと思う。携帯はともかく、もし被験者に若者がいても、一眼レフには同じように戸惑ったと思う。
そして、S先輩とY先輩が共同実験もしていて、人がポジティブ感情(合ってるかな・・・)の時、おそらく要するに気分が高揚しているとき、人の思考能力が上がり、認知そのものもしやすいということを結論づけている。そのことから、人から好かれるものは認知されやすいというように導いています。たぶん要するに、愛着がものへの距離を縮めるということだろうか。質疑応答のときのM教授が「つまり快、不快?」という質問に対してS先輩が結構曖昧な返事だったが、その通りじゃないかなと思った。ポジティブ→高揚→愛着→好き→快・・・かな、自分的にはそんな流れ。矢印が逆の方がいいかな。

一休み

*注
そんなことも無いと思うけれども、もしも発表した本人が読んでいたら、謝りの言葉を先に述べときます。完全に理解するのに十分の知識も理解力も無いので、誤った理解や、一部の拡大解釈、それに的外れな意見感想は御許しください。図書館に論文が出たらじっくり読みます。
逆に指摘を頂けたら幸いです。

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